母は2年前の今日、
98歳の生涯を閉じました。
そんなわけで
今日は母の命日でした。
年齢に負けず頭はしっかり
して元気だった母も
3年前ごろから足の
血管が詰まったり、
腸閉塞を患って入退院を
繰り返していました。
2年前の年も押し詰まった
12月のことでした。
病院から出される食事を
自力で食べなくなったので
お昼は私が夜は兄が
病院まで通いながら
食べさせておりました。
看護師さんがお世話をして
くださるのですが
私たちでなければ十分に
食べてくれないので
兄と二人で分担して
お世話をしていたのです。
年が明けて元日だけは
兄も私もお世話を休みました。
二日から再び食事の
お世話をしておりましたが、
年明けの5日目に私が
不覚にも風邪をひいて
しまったので病院へは
行けませんでした。
幸いにも私の風邪は
数日限りで治ったのですが
不幸にも病院から
電話がありました。
院内でインフルエンザが
流行して母も感染して
個室に変わったので
連絡があるまでしばらく
面会には来ないように
とのことだったのです。
私と兄の献身的な介護によって
食事の摂れる量も増えてきたのに
院内感染の拡大を防止のために
面会も許されないとはなんと
いうことだと怒りを覚えました。
病院は地域の拠点病院では
ありませんが私立の比較的
大きな総合病院でした。
入院患者さんはお年寄りが
多くて市立総合病院のように
急性期の患者さんは少なく、
入退院を繰り返している
お年寄りの方が多かったのです。
9日ごろになると病院から
面会の許可がおりました。
それは院内感染が収束
したからではなく、
母の病状が重くて
危篤状態だったからでした。
病院に駆けつけると母は
意識不明で私たちの
呼びかけに反応がなく
酸素マスクを付けてベッドに
仰臥しておりました。
私たちは何とか意識の回復を
祈り見守っていましたが
その祈りもむなしく深夜、
一時を少し回ったころに
母は帰らぬ人となりました。
看病中は母のことを私は
お母ちゃんと呼んでいました。
隣のベッドの患者さんが
カーテン越しに私に声を
かけてくださったのですが
お母ちゃんと呼んでいるので
年齢を誤解されたらしく
私が初老の人間とはご存じ
なかったようでした。
歳をとっても母は母、
小さいころから頼りにしてきた
母をお母ちゃんと呼ぶのが
ごく普通の呼び方だと
思っていたのでした。
母のいない今は子供の頃を
ふと思い出すとき
やるせない寂しさと
むなしさを感じてしまいます。
私もこの先何年生きられるか
そんなことを考えます。
人生の終焉を迎えるとき、
妻には「幸せな人生だった」と
感謝の気持ちを述べたいです。
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