2018_01_12-1
母は2年前の今日、
98歳の生涯を閉じました。
そんなわけで
今日は母の命日でした。
年齢に負けず頭はしっかり
して元気だった母も
3年前ごろから足の
血管が詰まったり、
腸閉塞を患って入退院を
繰り返していました。
2年前の年も押し詰まった
12月のことでした。
病院から出される食事を
自力で食べなくなったので
お昼は私が夜は兄が
病院まで通いながら
食べさせておりました。
看護師さんがお世話をして
くださるのですが
私たちでなければ十分に
食べてくれないので
兄と二人で分担して
お世話をしていたのです。
2018_01_12-2
年が明けて元日だけは
兄も私もお世話を休みました。
二日から再び食事の
お世話をしておりましたが、
年明けの5日目に私が
不覚にも風邪をひいて
しまったので病院へは
行けませんでした。
幸いにも私の風邪は
数日限りで治ったのですが
不幸にも病院から
電話がありました。
院内でインフルエンザが
流行して母も感染して
個室に変わったので
連絡があるまでしばらく
面会には来ないように
とのことだったのです。
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私と兄の献身的な介護によって
食事の摂れる量も増えてきたのに
院内感染の拡大を防止のために
面会も許されないとはなんと
いうことだと怒りを覚えました。

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病院は地域の拠点病院では
ありませんが私立の比較的
大きな総合病院でした。
入院患者さんはお年寄りが
多くて市立総合病院のように
急性期の患者さんは少なく、
入退院を繰り返している
お年寄りの方が多かったのです。

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9日ごろになると病院から
面会の許可がおりました。
それは院内感染が収束
したからではなく、
母の病状が重くて
危篤状態だったからでした。
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病院に駆けつけると母は
意識不明で私たちの
呼びかけに反応がなく
酸素マスクを付けてベッドに
仰臥しておりました。
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私たちは何とか意識の回復を
祈り見守っていましたが
その祈りもむなしく深夜、
一時を少し回ったころに
母は帰らぬ人となりました。
看病中は母のことを私は
お母ちゃんと呼んでいました。
隣のベッドの患者さんが
カーテン越しに私に声を
かけてくださったのですが
お母ちゃんと呼んでいるので
年齢を誤解されたらしく
私が初老の人間とはご存じ
なかったようでした。
歳をとっても母は母、
小さいころから頼りにしてきた
母をお母ちゃんと呼ぶのが
ごく普通の呼び方だと
思っていたのでした。
母のいない今は子供の頃を
ふと思い出すとき
やるせない寂しさと
むなしさを感じてしまいます。
私もこの先何年生きられるか
そんなことを考えます。
人生の終焉を迎えるとき、
妻には「幸せな人生だった」と
感謝の気持ちを述べたいです。